2011年5月18日(中山道てくてくラリー31 日目)大津宿長等公園にて

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朝日をバックにした近江富士(三上山)の幻想的なシルエットに声を失うほどであった。
夜露に濡れたテント(外面)は、なぜか必ず内壁がべっとりと濡れている。ゴアテックスであるにもかかわらずだ。もちろんスリーピングバックもベタベタして気持ち悪い。出発を少し遅らせ、時間をかけて干すことにした。 
今日の大津宿に興味を持っている。一つはライフワークにしている『大津事件』である。二つには芭蕉の墓がある義仲寺である。
添付した写真は『此付近露国皇太子遭難之地』である。
だいぶ酔ってきた。最後の夜となるので、設営を待ちきれず祥介君と互いを激励するパーティーにはいった。『玉の光』純米吟醸酒一合瓶がみるまに空となり、酔ってしまったようだ。おやすみ。(約2時間寝たようだ)
さて、ロシア皇太子の件だが、1891年5月11日ニコラス アンドロブィッチ一行は琵琶湖遊覧のため大津訪問中(後のロシア皇帝ニコライ二世、ロシア革命で処刑された)、遊覧のあと滋賀県庁で昼食を終え京都への帰途についた午後1時30分、警護にあたっていた津田三蔵巡査が突然抜剣して切り付けた事件をいう。少し専門家として解説すると、当時のロシアは一流大国であり、日本は三流劣等国、だいたいお分かりであろうが、日本としては大変な事態を招いたわけだ。首相は辞任、何度もお詫びの使者をつかわす。しかしロシア側は相手にせず帰国してしまう。すなわちロシア皇太子は大君として振る舞ったわけだ。日露戦争、ロシア赤軍革命と歴史に翻弄され処刑され、最後のロシア皇帝となった悲劇の人である。この大津事件は夜明け前の日本とロシア帝政の関係を知る上で貴重な事件であったといえる。
つぎに俳句初心者として芭蕉はお師匠さんである。あの流れるような五七五、魅力的な言い回し、的確な描写、いままで誰も彼を越えられずにいる。あの『~の~や~かな』は彼の専売特許のようなものだ。芭蕉は余程に義仲(ぎちゅう)寺が好きだったようで、それは義仲(よしなか)の生き方に同情していたということと、当時の義仲寺は琵琶湖の湖岸に面した自然豊かな地であったことが古地図でわかる。(永年にわたる埋立により湖岸が遠退いたようだ)
以上の二件はまた機会があれば述べたい。明日に備えておやすみを言いたい。
芭蕉の句を『五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋』
『行く春や 近江の人と 惜しみける』
『古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音』
芭蕉辞世の句 『旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る』
横で祥介君が『早く寝ないとあした大変だぞ』って。おやすみ。68番目の宿場、大津宿の長等公園の設営地にて。 弥次喜多ことショウスケ&サネヒサ
では、あすお目にかかりましょう。