恵那山麓にてつれづれに

イメージ 1夜明け前のここ中津川の郷は、三日月が風に揺れて泣き笑いしている。この木曽谷に出る月に問いかけて島崎藤村『夜明け前』を書いたのだろう。思うにわたしも藤村の影響を受けた一人かも知れぬ。藤村は木曽路と言う狭い土地柄(世界)を描写しつつ自由、解放を叫んでいた。わたしも青年のころ日本という狭い世界から海外へと旅立つことを夢を見ていた。同志社ローバーの(スカウト)ユニフォームを着て神戸港より最後の移民船ブラジル丸で家族やスカウト関係者に見送られ出港したのが若き22才の時だったことを、藤村の生誕地、馬籠で懐かしく思い出していた。スカウト移民としてブラジルサンパウロにあったカラコルム隊に派遣され、バウー研修所に入所した。当時、敗戦後の日本には多くの戦争孤児が青年に達し、大学や地域のローバースカウト(青年隊員)に参加していた。青年のエネルギー(情熱と夢)を大陸で花開かす計画を立てていた日本連盟の当時の三島総長、久留島理事長、小林事務局長はブラジルのサンパウロにある日伯援護協会会長細江ドクター、小幡事務局長
カラコルム隊隊長)の間にローバー交流協定を結んだ。わたしはその最後の派遣ローバーである。この間約三.四十名のローバーが渡伯、原始林開拓、農業や牧場、果樹園に従事していた。私に与えられたプロジェクトはメインの養鱒(ブラジルで初めて)技術の指導普及、世界連盟研修用野営サイトの建設(キャンプサイト、教会、水洗トイレ、本部棟の建設協力)であった。建設地はサンパウロ市とリオデジャネイロの中間にある避暑地カンポス ド ジョルドン(標高約500M)で軽井沢のような地にあった。生活はカーボーイとしての乗馬訓練、射撃訓練、果樹園の手入れ、乳搾り(チーズ作り)など楽しい時間を過ごした。夜はランプ生活、ドラム缶風呂からみる南十字星の幻想的な美しさかが忘れられない。牛泥棒との対決、馬に跨がり買物のため麓に下山、帰りが真夜中になり馬上で居眠りしているとわたしを枝に宙吊りにして馬はさっさと行ってしまった時の慌てよう。馬は実に賢い、一度通った道は暗闇でもわかるらしい。危険なこともあったスタッフの一人からピストルの使い
方を教わっていたとき、弾丸は抜いていたはずだが、冗談にもわたしの顔を狙って引き金を引いたんだからたまったもんじゃない。銃口に左手をあてていたので弾丸は螺旋状に急速回転しながら掌を貫きわたしの顔をそれ、後ろの壁にめり込んだ。弾丸が一発残っていたんだ。人はいつも死と隣り合わせだ。今を生きられている摩訶不思議、それはそれぞれに与えられた運命かもしれぬ。そしてそこに自分を主人公とした自分だけのドラマ、人生物語が 星の数だけ生まれているのだろう。そうそう鱒の話だが、当時南米ではアルゼンチンだけに生息していた鱒の稚魚を取り寄せ失敗を繰り返したが、現在レストランに卸せるほどの養鱒場に成功していると聞く。ちなみにわたしに養鱒の技術を教えていただいたのが左京区花園橋から入った八瀬にある鱒の坊の先代である。ブラジル同志社クラブについても記しておこう。移民としての同志社人もかなりおられたようだ。初代会長はブラジル大使だった古谷重綱老で、わたしがお会いしたときは、すでに百才にお近かったと思う。ご夫人もご健在であ
った。重鎮としては、清水尚久先輩(同志社中学より大学へ、ラクビー部所属、愛媛県出身)、大橋先輩、若い世代としては今西氏(石川島播磨重工、父上が同志社大学社会学部教授)、寺坂氏(ブラジルクボタ鉄工、二人共同志社中学より大学へ、乗馬部所属)北村氏(マットグロッソカンピーナスで寝具衣料経営、同志社経済)、それに若輩後藤(バウー研修所員、早川電機工業ー現シャープ、岩倉高校同志社経済)が加わった。いまから約四十五年前の話だ。時間があるのでついつい備忘録作りとあいなった。わたしもようやく老境にさしかかっているのだろう。今日は昨日と同じく二十五度の真夏日になりそうだ。ここ中津川にあるユースホステルで疲れをとるため連泊している。明日5月10日からは三日続けて雨らしい。恵那山の麓に広がる棚田に山水がひかれ蛙の大合唱だ。 後藤記 (写真は恵那山をバックにユースホステル