日本の大学ローバーは何をしてきたかー同志社の経験から

☆日本の大学ローバーは何をしてきたかー同志社の経験から
                                   田中(79年度生当時同志社ローバース副隊長)

はじめに
 皆さんこんにちは、 関西からやって参りました。 4年前から副長をやれということで、 現役の活動のサポートをやってきましたが、 実際にはこの3月で最後の部員が卒業してしまうということで、 4月から「 休部」 という事態になりました。 今日は存続にむけたヒントをつかめればということも含めて参加いたしました。
  さて、 『ローバースカウトハンドブック』 については、 私もじっくりと目を通したわけですが、 やはり大学ローバーに対する視点論点について、 ちょっと誤解をされている部分があるんじゃないか。 特殊な階級社会だとかいろいろ書いてあるわけですが、 私達がやってきた活動はそういう特殊な階級社会の活動ではないんです。 そのことをきっちりとここで皆さんにお示しする必要がある。
  特に東京の場合は大学ローバー隊がたくさんありまして、 皆さん切琢磨する中でいろんなことをPRされてきた部分があると思います。 やはり日本の中心地ですので、 いや東連もあり日連もあると言ったほうがいいでしょう。 やったことが全国的にすぐ伝わる部分があると思うんです。
 やっぱり関西、 悲しいかなまだまだ日本の現状の中では一地方で、 こういうことをやってきたんだという活動の実績が広まらない。
  私は1979年に同志社に入りまして、 それまでボーイスカウトの経験がございませんでした。 4年プラスアルファ、 ローバーの活動をしました。 その時の活動を何やってたんだという話も出るかも知れませんけれども、 そのへんの反省も踏まえてお話すれば、 参考にしていていただけるんじゃないかと思います。
  ちょうど私がやっていた頃、 ご存じの通り日本のボーイスカウト登録人口は1979年から81年が頂点だったと思うんです。 これはたまたま第2次ベビーブームの子ども達がカブ、 ボーイの年代になると、 団もどんどん出来てきました。 京都で6大協という言い方をしてたんですけど、 6つの大学にローバーがありまして、 100数十名の大学ローバーが京都の大学にいたわけです。 うちでも30人近い部員がいました。 活動の形態も十色で同志社同志社流に、 非常に人数が多い京都産業大学京産なりに、 いろんな取り組みをやっていたんです。 そのことをきちんとここで皆さんにお知らせしたい。早稲田や慶応とも活動が違うんだということもまたはっきりさせたうえで、 こんなことしていたんだと若干お話させていただきたい。 皆さまのご参考になればと思って、 今日は参りました。
  私の作りましたレジュメ( 98-107頁) でございますけれども、 同志社のローバー隊、正式には同志社大学スカウト同好会、 ボーイスカウト京都第43団ローバー隊でございます。1961年の創設でございます。  ご存じかと思いますが、 同志社大学と言いますのは京都の上京区にございます。 ちょうど京都御所の北側、 新幹線の京都駅から北へ5キロくらいの所にあるんです。 もともとここにキャンパスが一つあったわけなんですけども、 1986年に京都市の南の郊外、 京都府綴喜郡田辺町に新しいキャンパスが出来ました。 現在、 この二つの校地、 距離にしたらざっと25キロくらい離れています。 こういう2拠点で活動しているわけでございます。 今、 スカウト同好会、 イコール43団ローバーと申しましたが、 このへんの変遷はまた後で説明させていただきたいと思います。
 1961年に創部した時には、 早稲田も慶応もそうだったと思うんですけども、 戦後ボーイスカウトが再び起こってきた時のメンバーがちょうどローバーの世代になって、 京都でも何かやろうじゃないかということで、 地域団で若手のリーダーとして活動していた同志社大学生が集まってローバーを作ったということです。 うちの場合は最初から体育会的な活動を志向したのが特徴でありまして、 創部から2年後の1963年に中山道を徒歩で歩いた。 ボーイスカウトの制服で隊列を組んで30人が京都から東京まで歩きました。 東京では早稲田ローバーにお迎えをしていただいた、 という記録がうちに残っております。 そんなことで、 学内でも非常に有名になりまして、 どっと部員が入ったわけです、 未経験者が。 「 あそうか、 スカウト同好会、 ローバーというのはアウトドアのグループなんだな」 ということが早速この時期から出ておりまして、 それが4年後の分裂騒動に繋がっていくわけです。
  当時、 同志社にはローバーとレンジャーがございました。 ガールスカウトのレンジャー部門でございますね。 同じ1961年にレンジャー部門が出来たと聞いておりますけども、 4年後に解散をいたしております。 その後、 1965年から1973年までの8年間は、 男子の学生だけの活動が続きました。

活動の特色

 コ・エデュケーションということが中島さんからご紹介がありました。 同志社ローバーは、 ちょっとややこしいんですけど、 同志社スカウト同好会としては1973年から女子部員の受け入れを致しております。 このことも後でちょっと詳しくご紹介をさせていただきたいと思うんです。 当時から男女共習、 我々はコ・エデュケーションという言い方じゃなくて、 慶応では" コ・ エデュ" と言うんですか。 うちは関西人ですからそのまま" コ・エドと言っておりました。 余談になりますが、 僕びっくりしたんですけどマクドナルドのことを東京ではマックと言うんですってね、 関西ではマクドでございます。この辺にも関西と関東との文化の違いを非常に感じてしまうんです。
 そうゆうことで男女一緒に活動していた時期がありました。 私が活動していた1979年から1983年にかけては、だいたい1学年10人程度の部員。その内の5割から6割が未経験者でございます。殆どが経験者であった早稲田や慶応とは大きな違いがあるんじゃないだろうかと思うんです。
 もともと野外活動をわりとベースにする活動をしておりましたので、 例えばいつも2月から3月にかけて合宿をしましたが、 遠征という言い方をしていいんでしょうか。 『 ローバースカウトハンドブック」 には遠征という言葉は使わないという風に書いてありました。
 私が4年間やってた中でも、2度、沖縄でサバイバルキャンプをやったり、250キロの徒旅行をやったりと、アウトドアの活動、野外活動が非常に大きな比重を占めていた。 実際に無人島キャンプをするには人数も要るということだったと思うんです。
 同志社の場合、学内のサークル連合組織がサークル紹介の本を出すんですが、 そこに「星空の下で青春を語りませんか、スカウト同好会」 と書いてあった。 私達も実はそれで入った世代なんです。しかし、私の入った2年後の1981年になりますが、 早稲田や慶応とか、 また地域のボーイスカウトとの交流の中で「これではいけない。 やはりローバースはローバースなんだ。基本に戻そう」 ということで、活動のあり方を若干戻しましたら部員がぐぐぐっと減ってしまった。 そのへんのところ、 いつたい何が正しいのか、ちょっと議論があると思うんです。当時はそういう状況であったということです。
 先ほど「早稲田ローバーに会則はない」とおっしゃいましたが、 うちは一応持って参りましたレジュメの2枚目をお開けいただけますでしょうか。 同志社大学スカウト同好会会則ということで、昭和49(1974)年にこういう会則が出来ております。ただ、これは皆さんおわかりいただけていると思うんですけども、スカウティングというのは組織ではなくて運動であるという言い方をよくすると思います。また、組織で縛られるものではない、こういう規則で縛られるものではないと。 実際に活動があって、それに合わしていけばいいんだと。うちはこう思っておりましたので、実はこの会則を基盤にした形で活動を続けてきましたけれども、 都合の悪いところはもうどんどん変えました。 ですから実体に合わない部分もかなりございます。ただ根本にはこれがあったということで、 例えば先ほど他大学の学生がなぜ早稲田に入って駄目なんだという話が出ましたが、同志社の場合は第4条で、会員は同大生もしくは同志社女子大生に限る。また幹部ということで通常は3年生がローバーの中での幹部になる。いや上級班長というか隊付というか、そういう形で運営のリーダーシップを幹部が担っていくんだということが決まっていた。
 うちは一応、班制度はございました。班の外、また後で説明させていただきますけども、企画委員会、マネージメント、アドホックチームがありました。 月に一度の同好会(クラブ)集会、隊集会のことですけれども、こういうのを行なったり、 また19条から20条まであります通り、活動としては原隊、 奉仕隊の活動を優先する。特にこれは京都ではうちと当時ありました大谷大学のローバーだけだったと思うんです。
 一例を挙げますと、京産大ローバーですと体育会ですので、1週間、7日あったらそのうち6日までローバー活動がある。 下級生が「実は私、カブ隊のリーダーしているのよ」と言っても、上級生が「そんなの行かなくていい」。だが「それはおかしいじゃないか」と。それで、 原隊、奉仕隊の活動は優先するんだという枠組みを作っておりました。
 大学生活は4年間あるわけなんですが、 1年から3年までの間でこういう風な集合訓練、アドホック、 マネージメントなどの活動をして、4年生でまとめをする。実際に先ほど海外の話が出ましたけれども、4年生の時点でワールドジャンボリーに行ったり、カンデルスティッヒに行っていると聞いております。個人プロジェクトです。この時期に熱心にやられた方もいるということなんです。

実際の活動
 次の1枚を見ていただけますでしょうか。実はこれは私が3年の時の活動記録です。しかし古い資料が何処へ行ったのかわからないということで、私の家の倉庫の隅から自分の現時代のローバー活動の資料が入った段ボールを引っぱり出してきて、どういう活動をしてきたのか、それらからちょっと書き写してみました。
 活動の体系としましては、マネージメト、 企画委員会、アドホック、プロジェクト、班活動。それを全体的に括る形としての全体行事。これらを年次活動方針で規定をしたということでございます。自分の時の年次活動方針がなくて申し訳ないんですが、次の所へとめくっていただきましたら1984年度活動方針要旨があります。
本当は全部載せたかったんですけれども、B5で4頁くらいになってしまいますんで、 それに一昨日の夜、 あわてて作りましたんで、非常にしょっているんです。
 こういう風に年間方針、活動方針、マネージメントのあり方、班制度のあり方、見習いローバートレーニング、これについては慶応の方で補足のときにまた話が出るかもしれません。企画委員会、アドホック、奉仕、 合宿-合宿という名称を使っていたんです、 個人プロジェクト。 それとコ・エデュケーション。
 実際の具体的な活動スケジュールを毎年年度の終わり、ちょうど1枚前のRS活動記録をご覧いただいたらわかると思うんですが、12月から1月にかけて臨時クラブ集会というのが2度ほどあることがおわかりいただけると思うんです。
 活動方針は次年度の幹部が原案を作って、クラブ全体の承認を得なければ決まらないのです。当時の2年生が原案を出すわけです。 1年生がこんなのおかしいじゃないか、 俺はこれがしたいんだというのがありますし、実際に喧々ガクガクの議論をして私達の活動はいったい何なんだと。 同志社ローバーは何を目指すんだ、 また我々の個人のローバーリングは何をするんだ、ということをここでかなり突っ込んだ議論をして、その上で活動を決めていく。
 だから、特異な階級社会で上級生が一方的に活動を決めていくことは一切なかった。これははっきり言えると思います。非常に自画自賛になってしまうんですけれども、民主的な運営なんでしょうかね、中島さん。当時はクルーの意向を踏まえながら、 活動計画をきちんとやっていたという部分があろうかと思います。
 また活動体系にあります通り、 マネージメントには会計だとか備品だとか進歩だとか、これは1年生から3年生まで全てがどれか一つを担当する。企画委員会、星マークを付けてるのが、例えば4月のトレーニン・キャンプとか新入生歓迎、仮入隊式、入隊式、こういうのは企画委員会でやる。アドホックはスキーに行ったり、たまにはお遊びキャンプしたり登山したり。プロジェクトは例えば28KC、第28回キャンポリーです。これは京都府連の大会だったんですけれども、連盟からの依頼で、そういう所へプロジェクト隊員としてメンバーを出している。また、ちょうどこの時が創立20周年でしたのでプロジェクトを作った。そして班活動をした。これらが縦横重なった形で同志社ローバーの活動が位置づけられたと思います。
 先ほどフルタイムローバーという話が出ましたが、ご覧いただいたらおわかりいただける通り、これだけ行事があるわけです。クラブ、隊行事は
基本的に全員出席です。原則的に欠席できるのは病気した時と原隊の活動、そして授業がある時だけです。アドホックは、たまには山に行ったりもしたいと。ただ実際にこの年は他にもいろいろありましたので、アドホックの数が非常に少なかったんですけども、ポッポッポとある。
 うちの泣き所なんですけども奉仕の問題。同志社ローバーとしての奉仕が少なかった部分が問題としてありました。奉仕については、当時の部員で原隊や奉仕で奉仕をしていたのは、全体の4割くらいだったといます。  奉仕はリーダーとしてという考えで、私もカブ隊の副長と隊長を致しました。またウッドバッチ研修所の奉仕をしたり、28KCでは同志社京都外大のローバーで行事部をしてくれと。これはとても無理だから勘弁してくれとは言ったんですが、その京都連盟の大会の行事部の実働の半分をうちが引き受けた。5名、部員を出しました。連盟事務局の一番近くにあった京都14団のスカウトハウスが、行事都の溜まり場だったんです。 そのへんの連中はそこへ毎晩、同志社ローパーの活動が終わってから行って作業をして当然、徹夜で帰ってくる。次の日は授業に出れないということで、私達の代ともう一つ下の代は大学に5年行った奴が多い。良くない傾向なんですけども。
 そういうことをして参りました。ただ、先ほど申しました通り、スカウト経験者の割合が4割、未経験が6割ということでしたので、私も勧められて2年生の時から奉仕隊を持ったんです。実際にこれだけの活動をしながら奉仕隊の活動をするということは、非常にしんどい部分がある。   ボーイスカウトは、カブ、ポーィ、シニア、ローバー、今はビーバーもありますけども、一貫した中でのローバー隊という位置づけがあるわけです。しかし大学ローバーは鬼っ子みたいな存在なんだとよく言われました。一貫した制度から離れた違う部分で、ちょっと斜めに構えながら、敢えて言いにくい事をズバズバと言っていく。そういう役割もあったんだろうと思うんです。 ただよくカレーライスの論議といったんですけれども、カレーライスが辛いのは食べてみないとわからない。実際にリーダー活動をして、その中で得るものもあるんじゃないか、そういう議論もよくあったんです。その奉仕の在り方については私見なんですけど、当時おざなりになっていた部分があるんじゃないかなと思うんです。
 大学ローバーが地域のスカウト活動との関わりが薄い部分というのは、 先ほど中島さんが提示された中尾君と古賀君の研究の中にもあったと思うんです。そのへんのところをやはり考えていく必要があったんじゃないか。 大学ローバーであっても、例えば街でカブやビーバーを見て、大学ローバーのスカウトが、「あっ、同じスカウト仲間だ」と思えるかという問題なんです。俺たちは一応ボーイスカウトの格好をして、アウトドアの活動をやっているんだということだったら、そうゆうことは絶対に起こらないと思うんです。
 スカウト仲間というのがやはり大きな一つの原則になってこようかなと思います。そのへんのところは、今日は他大学からもいらっしゃっているんでしょうか、いらっしゃっていたら少し考えていただきたいなと思うわけです。
 あと1回生のトレーニングをちょっと喋ろうと思ったんですけど、これはうちと先ほどから4大学という話が出てましたけど、毎年一回この4校で研修会をやってましたから、慶応のスポンサー制を参考にして1回生のトレーニングをやっておりました。
 コ・エデュケーションちょっとだけ話をさせていただきます。これもしゃべりだしたら2時間くらいかかるような話で、またうちでもこちらの方が専門のOBがいますんで、詳しい話は別の機会にさせていただければ有り難いなと思うんです。先ほど申しました通り、1961年か1965年までレンジャーがあった。1965年から1973年までローバー、男だけの活動を私どものスカウト同好会では致しておりました。そのへんにつきましては、レジュメの後ろから2枚目、女子部員のクラブ参加についてということで書いております。まぁ何て言うんでしょうか、 高ぶった気持ちが文章に出ているんじゃないかと思うんです。当時から女子部員を受け入れております。ただ、ここに書いてあります通り、この時はスカウト同好会の枠組みの中で、ローバーの男子部員と女子部員という分け方を致しておりました。
 実はこれは1973年から1976年までの4年間でございまして、1977年からは京都43団ローバー隊に女子隊員がいるという位置づけに変えました。それはもともとどういうことかと申しますと、ローバーリングの理念である男らしい男は『ローバーリング・トゥ・ サクセス』を読んでても書いてあるわけです。当然、BPの時代からは社会が変化してきてます。男らしさと女らしさ、今、仕事の行政で女性問題をやっておりまして、ジェンダーということと大きく関わってくる部分があろうと思うんです。男らしさ女らしさじゃなくて、個人の個性、または人間らしさじゃないかと。そういう議論があったと聞いております。
 じゃあ、ガールスカウトはどうなんだ。今日ガールスカウトの関係者がいらっしゃったら申し訳ないんですが、当時の議論としては、ガールスカウトの考え方である良き家庭人はいかがなものかと。それよりもローバーの理念の中に女子が入ってもおかしくないじやないか。実際に大学のクラブということで、受け入れしやすい部分があったんだろうと思います。 1977年からカブのリーダーのユニホームを着て、京都43団という隊番を付けて活動をしたわけです。
 ただ、いろいろ問題がございました。ジャンボリーとか、連盟主催行事に参加が出来ないという問題です。早稲田はあの時は団委員で登録をされて、うちも実はそういうことを考えたんです。「 いや、うちはローバーと思っているんだから、団委員で登録するのは邪道だ」と。 だから名をとるか実をとるかの議論はあったんです。
 京都連盟の登録審査に女性の名前を書いて、1977年と1978年に持っていった。そしたら当然のことながら突き返された。その当時、うちのOBが県副コミかなんかだったんです。連盟のお偉いさんに副コミが呼び出されて「どうなってるんだ」と。「いや、私もわからない」と言って、そのへんはごまかしてもらったと聞いているんです。
 実際にそういうふうな形で活動を続けてきました。ただ、うちのローバー活動として、それはあくまでも自分達のための活動であって、広くこれからのボーイスカウト活動の中に、特にローバー世代に対して女性を入れていくんだということをアピールするんだということは、2次的、3次的な考えでしたので、当時の実践というものが記録として残っておりません。実際に女子部員がいて、あの時はこうだったということがその当時の各隊員の頭の中にあるだけで、書いたものがない。実はそのへんがあれば、今日持ってきて、皆さんにお示しできたと思うんです。成果が解析できていない。これは非常に残念なことなんです。
 実際に班の中に男性と女性がいて、一緒に無人島なども活動していた。 女性が入ると野外活動のレベルが落ちるとよく話が出ますけど、じゃあ、 登山家の田部井淳子さんとか今井通子さんはどうなんだ。 実際に女性がいなくても、そんなにきついロッククライミングをしてたわけじゃありませんし、お茶を濁す程度のアウトドアって言えば怒られますけど、ただ無人島のサバイバルをやったり、実際に男子も女子も250キロ歩いたり、 そういう活動をしてきたわけです。決して体力差うんぬんということはなかったんじゃないと、今はこう考えているわけです。
休部に至った経緯
 最後になりますけれども、最初に言いましたうちのローバーが、なぜ休部に至ったのかというお話をちょっとだけさせていただきたいと思います。
 一番最後のレジュメなんですけど、これは昨年のうちのOB会、育成会の総会の時に、ローバー隊のリーダーで出した経緯段告であります。先ほど中島さんから早稲田の場合、「溜まり場」という話が出たわけですけど、大学ローバーの特徴と言ったら、同じ学校に居る、同じ場所、同じ時間ということを簡単に共有できる。ちょっと昼休みに部屋に集まって「 みんな、飯でも食おうぜ、終わってから飲みに行こうぜ」。そういうことが非常によく出来たわけです。ただ実際に活動が2拠点に分かれることによって、活動のレベルや頻度がどうしても下がてしまいます。特に大学ローバーは4年間しか活動がありませんので、1、2年生と3,4年生との活動が分かれてしまうと非常に痛い部分があります。それで、部員がどどっと減りました。
 1990年だったと思うんですけど、スカウト同好会でアウトドアをやりたいと、部員がたくさん入りました。彼らがキャンプ地に来ると、なぜか知らないがカーキ色の制服を着た人がたくさんいる暗いところで「 お前、これを読め」と紙を一枚貰ったら、「私は名誉にかけて云々」と書いてあるわけです。ところが「これは何なんだ」と。今までだったら一つの所で活動していたので、新人会員に話ができたんです。「ここはボーイスカウトで君らはローバー。だから18才、19才、20才の青年として社会やスカウト運動に対してこういうことをしていくんだよ」と言ってきたわけです。ところが下級生と上級生に分かれてしまったので、段差が出来て言えなくなってしまった。「俺達はアウトドアで入ったのに、何でそんなことをやらなくちゃいけないんだ俺達のが多数派なんだ、おかしい」ということで、30周年の記念式典をしましたら「俺達は行かない」と言って部員の2割しか来なかった。殆どOBだけの30周年をやった。その後、うるさい我々には彼らの方からは連絡を取ってくれなくなってしまった。
 ちょうどその時、1993年に私に「お前、副長をしろ」ということで、 もう一度現役の諸君と連絡が取れたんです。その年もどどっと部員が入って、北海道であったローバームートにうちのローバーから10名くらい派遣したんです。彼らは行って「俺達の求めているものと違う」と言って帰ってくるわけです。
 これは我々も後で聞いてちょっとショックを受けた話なんですけど、 同志社大学生の中にもたくさんスカウト経験者がいるんだということがよくわかった。同志社の学生は約2万人おりますんで1パーセントがボーイスカウトをやっていたとしても200人いるわけです。そういう連中というのは我々の括動に対しては目を向けてくれない。 それは逆にいえば、 そんなわけのわからない活動だから行かないと。
 自分自身が所属するのは京都78団なんですけど、そこでも同志社に入った学生がいて、「 お前、同志社のローバー入ったらどうだ」。それで覗きに行って、実際そんな状態でしたので、帰ってきて「田中さんがやっていた頃とは全然違うじゃないの。あのローバーだったら俺は入っても面白くないから入らへんわ」と。僕自身も「そうか、それだったらよう勧めん」と。OBの立場として、「いや、お前入って再建してくれという話もしたかったんです。逆に言えば、火中に栗を拾うというような形になってしまう。
 あとはそんなこんなでずずっとお読みいただいたらわかると思うんです。学生の気質の変わってきた問題だとか、同志社独特の2拠点に分かれてしまった問題等々あるわけなんです。その時、アウトドアやりたい派の連中からよく聞いた話なんですけど、勧誘するときには「ローバーは何をしてもいいんだ」と言ったじゃないか。「ローバーリングは何でも出来る、何をしてもいい。だから、好きなことだけしてたらいいんじゃないですか」と。
 言葉のまやかしって言うんじゃないですけれども、ローバーは何をしてもいいということは、何もしなくてもいい、好きなことだけしてたらいいという訳ではなずです。そういう彼らに対してボーイスカウトというのはこういうもんなんだよということをきっちりと、自分がやるやらないは別にして、提示できなかったことを非常に残念に思っています。
 うちのローバーは今こんな状態で、慶応では再建委員会が出来たということで、今後の対応についていろいろ考えております。今日わざわざ京都からやって来たのも、いろんな方がいらっしゃるでしょうし、どうすれば同志社ローバーが復活できるのか、また皆さんのご子弟の中で同志社大学に行きたい人がいないか伺いに来たわけです。この間、中嶋さんに言ったんですけど、今年の4月から早稲田と同志社は学生の交換留学を始める。 だから、早稲田ローバーの2年生か3年生を一人、同志社ローバーに送って下さいと。彼が中心になって同志社ローバーを再建すればいいじゃないかと。まぁ、そんな話も冗談半分でしてたんです。
 大学ローバーの役割として、やはり私もそうでしたけども、ボーイスカウトに関心を持っていたけど縁がなかった若者、そして地方出身者ですね、例えば九州や中国から、北陸は関西では多いわけですけど、関西へ出てきてそこで活動を保障する場として大学ローバーの役割があるんじゃないか。早稲田ローバーの場合もそうだったと思うんです。そういった意味から考えても、いろんな人間が十人十色いて、それぞれの地域から来るスカウト経験者だとしても、俺の時のボーイはこうやってんという話も出来る。スカウトっていうのは全国の一つの組織だけど、これだけばらばらの組織なのかということを僕らの同期の連中でも言ってたんです。そういったこともわかる。まだまだ役割はあるんじゃないか。
 ただ、活動をどういうふうに具体的にしていったらいいのか、正直言ってうちの場合まだわからない。私個人としては、同志社でローバーリングをやりたいという奴がそれを決めててくれたらいいと思っております。そのために、場所と金は私達OB会として提供しようと考えています。

◎ 「同志社大学ローバースカウト隊 : 活動状況と休会と復団の経緯 」

同好会の「休会」に至る経緯について(報告)
95年12月12日
同志社大学スカウト同好会OB会会員各位
日本ボーイスカウト京都第43団RS隊(同志社大学スカウト同好会)
隊長黒木
副長市坪
副長田中
三指
 師走を迎えOB会会員各位には、益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。日頃はRS隊、同好会活動に何かとご支援いただきながら、報告が滞っておりましたことに対し、この場を借りておわび申し上げます。
 さて、すでにお聞きおよびかもしれませんが、本同好会(以下DRS) は来年3月をもって、現在の現役5名全員が「卒業」することになり、 4月以降は「休会」という事態を迎えなければならないことになりました。本来であれば、来年は「創設35周年」の記念すべき年を迎えるはずであっただけに、このこと「残念」の一語では言い表せないものがあります。
 本日は、DRSがこのような事態に至った経緯について、ここ数年の活動ならびに「復活」へのあり方を含め、簡単に報告をさせていだたきます。

1. 91年の「30周年」前から92年頃まで
 86年田辺キャンパス開設に伴い、DRSの活動は今出川と田辺の2拠点に分散することになり、それ以前とは活動形態や頻度が大幅に変わり、このことなどを要因に、88年前後は現役会員数も実質的に4名程度となってしまったことは、すでにご承知のことと思います。
 その後、「廃会」の危機を乗り越えるべく、当時の現役の努力で「アウトドア」をカンバンに、90年には多くの新会員を獲得するに至りました。 しかしながら、この時の入会者を中心とした多くの現役会員から「スカウト活動に対する理解」を得られず、91年の「創設30周年記念式典」は、多くの現役が「不参加」のまま、 OB会主導で挙行されたことも、記億されておられることと思います。その後は現役サイドとは、ほとんどコンタクトが取れない状況が1年間続きました。

2、  93年ごろから現在まで
 93年春に当時の3回生・土居氏から再び連絡があり、「活動を継続していること」や「新入会員が10名前後いること」などが伝えられました。同年は、再び活動に「スカウティングの息吹」を吹き込むべく、8月に北海道で開かれた「全国ローバームート」に数名の現役を送ったほか、9月には奈良でほぼ10年ぶりにOB・現役合同キャンプを開催するなど、大きな「前進」があったと思われました。しかし、「きずな、93」の紙面討論でも分かるように、「アウトドア活動」を求めて入会した多くの会員には、「スカウト活勛への取り組み」に対する抵抗感は強いものがありました。
 その後、翌94年2月には次年度幹部が「スカウト色を活動に出す」ことを会員に諮ったところ、2月の沖繩での合宿を実施した後、年度末をもってすべての1回生が退会する事態となりました。
 94年度は3回生5人のみという状況で活動が始まりました。新入会員勧誘に向けても、1名の新人(N君)を獲得したに留まりました。この年は8月に第11回日本ジャンボリーが大分・久住高原で開催され、DRSからは3名が参加。その後も、新人勧誘に努めましたがいい結果は出ず、また、N君もほとんど活動に姿を見せなくなり、年度末に退会。95年4月にはキャプテンの近藤君が大学院に飛び級で進学し、多忙を極めるなかで勧誘が続けられましたが、新入会員獲得はならず、今日に至った吹第です。

3、 部外連との折衝等、 現状について
 去る10月31日に黒木、 田中と現役の近藤(院工学研究科1)。 谷口(工4)両君との間で話し合いを持ち 次の2点が現役側から示されました。
(1) 部外団体連合(DRSの学内加盟組織)本部からは、役員の選出や会計報告などから見て、ここ数年来、傘下団体としての活動ができていないと認識されている。 12月までに休会(実質的廃会)届けを出すように求められている。休会となった場合、田辺と今出川の2つのボックスは自動的に引き渡すことになる。
(2) 現役としては、ローバームートやジャンボリーで、多くの同大生と知り合うことができ、その場を利用して勧誘活動を行った。その中で声をかけたほとんどの学生が「DRSをはじめ、現在の大学ローバーの活動には魅力を感じない」と返答し、そのことにたいへんショックを受けている。

4、 今後の対応について
 今後の対応については、組織上の問題ですので団委員会・育成会(OB会)の所管事項となりますが、現時点では私たちとしては、次の項目が課題になると考えています。
(1) 部外団体連合としての活動は休会せざるを得ない。ついてはボックスの明け渡し方法、ボックス内の備品・資材の保管* 保存をどうするのか。
(2) 院生として残る近藤・谷口の両君の協力を得て、団・隊としての登録だけは実施してはどうか。またこのことは日連の規約的には可能か。
(3) このまま「消滅」していくのを待つのではないことを、全0Bに確認したい。そして、できるだけ短期間に「復活」するための努力をしなければならない。そのためには次のことが必要ではないか。
 ①スカウト経験者が入隊しなければ、まず最初の復活エネルギー源とはならないと思われる。
 ② DRSのOB・OG関係者に理解と協力を求め、周囲や関係団にスカウティングに関心ある同大生がいないかどうか捜してもらい、該当者がいるならば勧誘してもらってはどうか。
 ③学内4高校(岩倉・香里・女子・国際)に在学中のシニアスカウトを捜し出す方法を考えてはどうか。
 ④日連機関誌「スカウティング」紙面で、全国のシニアーに「京都の大学に進学したら、ぜひ43団に入隊するよう」呼びかけてはどうか。特に同大生ならば好都合……。
 ⑤部外団体連合に対しては、休会中ではあるが、新入生に対する「部外連クラブ紹介」に、 巡絡先(近藤・谷口もしくは黒木)だけは掲載してくれるよう依頼する。 また、オリテ期間中も含めて勧誘ビラ、ポスターを貼らせてくれるよう、現役が交渉する。
(4) ともあれ、この事態になったとの認識に立ち、一度「解散式」 を盛大に挙行してもいいのではないか。

5、 現在の大学RSを取りまく現状について
 近年DRSにおいては「アウトドア」を売り物にした新人勧誘が続けられてきました。しかし、その結果は前記したように、集まった会員の「スカウト活動への拒絶」の中で、クラブ・サークルとしての活動の方向が定まらないという事態を迎えました。
 またその反面、同志社にも多数いるはずの「スカウト経験学生」からは、前記のジャンボリーでの「魅力を感じない」という声に見られるように、ほとんど入会希望の声もかからないのが、ここ数年の実状でした。  本年も8月に愛知県で全国ローバームートが開催されましたが、その盛り上がりに見られるように、近年の地域RSの活動は活性化の一途を見せています。一方で、大学RSの活動は、わが同志社のみならず低迷傾向にあります。DRSでは、早稲田・慶応・関学の各RSとは、長年にわたり「合同研修会」の開催などを通じ交流を深めてきました。実ははこの3校とも近年は、 隊員の減少(早稲田)、休団の危機(慶応)、休団⇒復活(関学 )といったDRSと同根の悩みに見舞われているとのことです。 地域におけるRS活動の隆盛一方での、こういった「大学RS離れ」は同志社だけの状況ではないと言えます。

6、最後に
 94年5月27日の京都新聞に「学生気質を探るークラブに対する考え変化」という、同志社におけるクラブ・サークルに関する記事が掲載されました。その中では次のようにあります。
「大学生活に大きな位置を占めるサークル活動。今、多様な生活を求める学生が増え、かつてのように『授業をさぼってでも』と力を入れるケースが減っている。 (中略) サークル活動運営のマーケティング調査をした松本・同志社大助教授は「クラブ活動は、人間関係を学べる絶好の機会。 しかし、個人主義が強くなり、深く付き合うのが苦手な学生が増えている。活動に打ち込まないのはこんな背景があるのでは』と見る。これまでは『クラブ・サークル活動が学生時代の最大の思い出』という人が多かったが、今の学生は、あれもこれもと手を出し『浅く広く』生活を謳歌する。 卒業の思い出に何を持ってゆくのだろう・・・・・。」
 現在、地域の青少年活動や学校での校外学習の一環として、小集団によるキャンプやハイキングなどの野外教育・環境教育が重要視されるようになってきました。これはスカウト運動から導入されたものであることは、OB会会員各位にはご承知のことと思います。またBーPの「自分のカヌーは自分で漕げ」のローバーリング・スピリットは時代を越え、現代の若者の心に響くものでないかと思います。次世代に向けた、我々の「遺産」として、「ローバーリング」取り組もうとする多くの同大生を「支援」すること。このことは、OB会会則にもあるように、我々に課せられた役割だった事を、今一度思い起こしたいと思います。
 今日の事態については、私達にも責任の一端のあることを認識しつつ、今後は非常に苦しい道のりではありますが、一日も早い復活を目指すべく、「実現可能なことを見つけ、そして実施していくべきでないか」と考えております。
 OB会会員各位には、今日の事態への経緯についてご了承いただくととも、今後の「復活」に向けて具体的な方策を、ぜひアドバイスいただくなど一層のご支援・ご協力をお願いし、報告といたします。
                          弥栄